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ノートルダム・デュ・オー丘を発見する

ル・コルビュジエ

ノートルダム・デュ・ オー礼拝堂

1944年に旧礼拝堂が破壊された後、所有者達は現代的な建築の礼拝堂を再建することにした。幾つかの計画の失敗を経て、最後にル・コルビュジエ(1887-1965)に依頼することになった。

ル・コルビュジエの設計した建築は1953年の司祭者の家に始まり、1955年の礼拝堂の竣工まで続いた。1955年6月25日に全体が完成する。


風景に感動したル・コルビュジエは、「その場所に語りかける言葉」として礼拝堂をデザインし、建築は風景の中にある白い灯台のように巡礼者を引きつけている。自然、建築と宗教は根底で繋がっている。ファサードは自然に向かい、自然(鳥や花など)と宇宙から導かれたシンボルが礼拝堂の中で聖母マリアを讃えている。

ル・コルビュジエは、礼拝堂で伝統的な聖なる空間を新たにつくり出そうとし、光は象徴的な役割を果たしている。壁には18世紀の聖母マリア像が置かれ、それは旧礼拝堂から残った像である。内陣の上部の光によって浮かんだように見えるアーチ形の天井は、壁の中に埋め込まれている15本の鉄筋コンクリートの柱によって支えられている中空のシェル構造である。壁は天井を支えない非耐力壁であり、1944年に破壊された旧礼拝堂の石が使用されている。

建築家は、北側と西側の2つの湾曲する壁がつくる3つの小礼拝堂を加えて設計した。これらは「光の井戸」となり、上から注がれる光は信者の目を天に向かわせる。1つの小礼拝堂は赤く塗られ、キリストの磔刑と1944年に亡くなった兵士の両方を表していると思われる。

多数の開口が穿たれた「光の壁」は、南面からの光によって照らされる。自然をモチーフに描かれたガラスは、聖母マリアを「月のように美しい」「朝の星」などと賛美している。幅3mのエナメルの扉も建築家の作品である。扉の外側は受胎告知を表しているように見える。内側の絵の意味は明確には分からないが、天に向かって合わされた両手は、祈りあるいは復活の象徴であろう。


家具も建築家によってデザインされた。告解室、ベンチ、祭壇、聖水盤、燭台、十字架…。建築と家具はル・コルビュジエが人体寸法をもとに発明した基準寸法のシステムであるモデュロールに従ってデザインされている。
東側の外部には大きな内陣がある。ここでは、8月15日(聖母の被昇天)と9月8日(聖母生誕祭)に巡礼の式典が行われる。

司祭者の家
巡礼者の家

巡礼者の家は、礼拝堂の建設労働者たちの住まいとしてル・コルビュジエが設計した。大きな共同の寝室が2室、食堂、台所を備えている。礼拝堂の竣工後は巡礼者や訪問者が数日間だけ滞在することができた。もうひとつの家は、当初はこの場所の守衛室として建てられたが、ここに礼拝堂の司祭が住んだことで司祭者の家と名付けられた。

ル・コルビュジエは、彼が第二次世界大戦中に考案した「ミュロンダン」式の住宅のように、はじめはこれらの家を木造または土を突き固める構法でつくろうとしていた。しかし、最終的にはこれらは鉄筋コンクリート造で旧礼拝堂の石を使って建てられた。屋上の緑化は、この家を環境の中に溶け込ませ、優れた断熱性能を生み出した。

これらの家は、南西と南東に向いているので、一日中自然光が入る。屋根の側面に沿って工夫して開けられた窓によって、家の奥まで光を取り入れることができる。礼拝堂と同様に、室内の家具はル・コルビュジエによってデザインされた。

La maison du chapelain

平和のピラミッド

1944年第二次世界大戦フランス解放時にこの丘の戦闘で犠牲になった戦友たちを弔うためにロンシャンの旧従軍兵士たちの依頼で建てられた。建設には旧礼拝堂の石が用いられている。古代遺跡を連想させるこのピラミッドは、巡礼のミサに参列する際の席としても使われる。小さな鉄製の支柱の上に据えられた平和の象徴である鳩は、ル・コルビュジエの助手であり、この礼拝堂の工事監理者であったアンドレ・メゾニエがデザインしたものである。

L'abri du pèlerin grand dortoir Le Corbusier Ronchamp

ジャン・プルーヴェ

鐘楼

ル・コルビュジエは礼拝堂に鐘をつける代わりに電子音響装置を設置したいと考えていたが、計画は実現しなかった。ル・コルビュジエの死後、1975年にジャン・プルーヴェによる3つの鐘を吊るした鉄製のベルタワーが完成した。2つの大きな鐘(ミの音とファ#の音)は旧礼拝堂から、小さい鐘(ラの音)は1974年にアヌシーで鋳造され、ル・コルビュジエの母親と妻の名前にちなんでシャルロット=アメリー=イヴォンヌ=マリーと命名された。3つの鐘は毎日、9時、正午、19時に鳴らされる。

レンゾ・ピアノ

聖クララ修道院と礼拝堂

所有者らは信者と巡礼者を迎えるため、丘にクララ修道院を建設した。修道女たちはブザンソンの修道院を売り2011年9月8日に完成したロンシャンの丘の修道院に住み始めた。レンゾ・ピアノ・ビルディング・ワークショップ(RPBW)が修道院、そして受付や事務所、展示スペースのある新しい案内所のパビリオンを設計した。受付では訪問ツアーもおこなっている。

丘にあるレンゾ・ピアノが設計した建物は、ル・コルビュジエの礼拝堂と調和している。丘に半分埋まっているので、ノートルダム・デュ・オー礼拝堂からその建物は見えない。修道院は2階建てで、下階には寝室、上階には共同生活のための空間(受付、図書室、工房、台所、礼拝堂)がある。大きなガラス面は修道女たちと自然・外部空間とをつなぐ役割を果たしている。土圧を受けるために鉄筋コンクリート造とされたが、それはル・コルビュジエの建築と呼応させるためでもあった。修道女の一日は、勤め(工房での典礼のための衣服製作など)や祈りを行う。

修道院の奥には修道女たちが毎日集まって祈りを捧げる礼拝堂がある。ノートルダム・デュ・オー礼拝堂と同様に、壁によって支えられていない天井は内陣に向かって高くなり、永遠の生命の源である天上の光に出会う。壁の大きな十字架は1417年にスペインの説教者である聖ビセンテ・フェレール(1350-1419)からブザンソンのクララ修道女に渡されたものである。礼拝堂の家具は修道女が木製を希望し、オリーブ(祭壇、聖水盤、講壇)とブナ(椅子)からつくられている。礼拝堂のオレンジ色の床は日没の時に壮麗な空間を生み出す。


修道院と案内所は地中に埋まっているので気温の寒暖差が少ない。ウィンターガーデンと組合せたヒートポンプは消費エネルギーの減少につながっている。

ノートルダム・デュ・オー丘の作品を発見する

Carte RPBW – Japonais
平和のピラミッド ノートルダム・デュ・オー礼拝堂 案内所のパビリオン 聖クララ修道院の礼拝堂 巡礼者の家 司祭者の家 鐘楼 聖クララ修道院 庭 案内所のパビリオン側 南の景色 庭 修道院側 北の景色 東の景色

平和のピラミッド

1944年第二次世界大戦フランス解放時にこの丘の戦闘で犠牲になった戦友たちを弔うためにロンシャンの旧従軍兵士たちの依頼で建てられた。建設には旧礼拝堂の石が用いられている。古代遺跡を連想させるこのピラミッドは、巡礼のミサに参列する際の席としても使われる。小さな鉄製の支柱の上に据えられた平和の象徴である鳩は、ル・コルビュジエの助手であり、この礼拝堂の工事監理者であったアンドレ・メゾニエがデザインしたものである。

ノートルダム・デュ・オー礼拝堂

1944年に旧礼拝堂が破壊された後、所有者達は現代的な建築の礼拝堂を再建することにした。幾つかの計画の失敗を経て、最後にル・コルビュジエ(1887-1965)に依頼することになった。ル・コルビュジエの設計した建築は1953年の司祭者の家に始まり、1955年の礼拝堂の竣工まで続いた。1955年6月25日に全体が完成する。風景に感動したル・コルビュジエは、「その場所に語りかける言葉」として礼拝堂をデザインし、建築は風景の中にある白い灯台のように巡礼者を引きつけている。自然、建築と宗教は根底で繋がっている。ファサードは自然に向かい、自然(鳥や花など)と宇宙から導かれたシンボルが礼拝堂の中で聖母マリアを讃えている。家具も建築家によってデザインされた。告解室、ベンチ、祭壇、聖水盤、燭台、十字架…。建築と家具はル・コルビュジエが人体寸法をもとに発明した基準寸法のシステムであるモデュロールに従ってデザインされている。東側の外部には大きな内陣がある。ここでは、8月15日(聖母の被昇天)と9月8日(聖母生誕祭)に巡礼の式典が行われる。

案内所のパビリオン

レンゾ・ピアノ・ビルディング・ワークショップ(RPBW)が修道院、そして受付や事務所、展示スペースのある新しい案内所のパビリオンを設計した。受付では訪問ツアーもおこなっている。

聖クララ修道院の礼拝堂

修道院の奥には修道女たちが毎日集まって祈りを捧げる礼拝堂がある。ノートルダム・デュ・オー礼拝堂と同様に、壁によって支えられていない天井は内陣に向かって高くなり、永遠の生命の源である天上の光に出会う。壁の大きな十字架は1417年にスペインの説教者である聖ビセンテ・フェレール(1350-1419)からブザンソンのクララ修道女に渡されたものである。礼拝堂の家具は修道女が木製を希望し、オリーブ(祭壇、聖水盤、講壇)とブナ(椅子)からつくられている。礼拝堂のオレンジ色の床は日没の時に壮麗な空間を生み出す。

巡礼者の家

巡礼者の家は、礼拝堂の建設労働者たちの住まいとしてル・コルビュジエが設計した。大きな共同の寝室が2室、食堂、台所を備えている。礼拝堂の竣工後は巡礼者や訪問者が数日間だけ滞在することができた。

司祭者の家

もうひとつの家は、当初はこの場所の守衛室として建てられたが、ここに礼拝堂の司祭が住んだことで司祭者の家と名付けられた。

鐘楼

ル・コルビュジエは礼拝堂に鐘をつける代わりに電子音響装置を設置したいと考えていたが、計画は実現しなかった。ル・コルビュジエの死後、1975年にジャン・プルーヴェによる3つの鐘を吊るした鉄製のベルタワーが完成した。2つの大きな鐘(ミの音とファ#の音)は旧礼拝堂から、小さい鐘(ラの音)は1974年にアヌシーで鋳造され、ル・コルビュジエの母親と妻の名前にちなんでシャルロット=アメリー=イヴォンヌ=マリーと命名された。3つの鐘は毎日、9時、正午、19時に鳴らされる。

聖クララ修道院

所有者らは信者と巡礼者を迎えるため、丘にクララ修道院を建設した。修道女たちはブザンソンの修道院を売り2011年9月8日に完成したロンシャンの丘の修道院に住み始めた。レンゾ・ピアノ・ビルディング・ワークショップ(RPBW)が修道院、そして受付や事務所、展示スペースのある新しい案内所のパビリオンを設計した。

丘にあるレンゾ・ピアノが設計した建物は、ル・コルビュジエの礼拝堂と調和している。丘に半分埋まっているので、ノートルダム・デュ・オー礼拝堂からその建物は見えない。修道院は2階建てで、下階には寝室、上階には共同生活のための空間(受付、図書室、工房、台所、礼拝堂)がある。大きなガラス面は修道女たちと自然・外部空間とをつなぐ役割を果たしている。土圧を受けるために鉄筋コンクリート造とされたが、それはル・コルビュジエの建築と呼応させるためでもあった。修道女の一日は、勤め(工房での典礼のための衣服製作など)や祈りを行う。

庭 案内所のパビリオン側

庭はフランスのランドスケープデザイナーであるミシェル・コラジュによるものである。彼の役目は植物に覆われていた場所を、ル・コルビュジエが望んでいた地形に戻すことであった。ピアノとコラジュは修道院を周辺の森林と調和させるために、建設中に敷地に4本のナラの木を残すことにした。コンテの森の特徴を持つ他の木は、工事の終わりに再び植樹された。

南の景色

ジュラ山脈が見える。

庭 修道院側

庭はフランスのランドスケープデザイナーであるミシェル・コラジュによるものである。彼の役目は植物に覆われていた場所を、ル・コルビュジエが望んでいた地形に戻すことであった。ピアノとコラジュは修道院を周辺の森林と調和させるために、建設中に敷地に4本のナラの木を残すことにした。コンテの森の特徴を持つ他の木は、工事の終わりに再び植樹された。

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北の景色

ヴォージュ山脈が見える。

東の景色

ベルフォール峡谷が見える。

© Renzo Piano Building Workshop.

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